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水仙/5

 ざっ、という芝を撫でる程度の、枝葉が触れ合う程度の些細な音が届いた。
 長峰稜(ナガミネ/リョウ)は何気なくそちらを向いた。電灯は遠く、月明かりの届かぬ暗い樹の下(もと)を。

 小さな人影。
 暗い。誰かいるのだろうかと目をこらしても、闇は存外深く、稜の詮索には答えない。

 不意に、人影は月明かりの下へ歩み出た。
 今度は音を立てずに、幽明の堺を超えるように現れる人影。

 現れたのは幼い少女。
 艶やかな、朱とも白とも付かない、桜のような髪がまず輝きを放つ。
 唇と頬は血色のある鮮紅。
 男物のYシャツを外套のように羽織っており、裾から除く細い足は銀製の食器じみた輝きを帯びていた。

 その最奥で、双眸は獣の躍動感を孕みながらも、じっと稜を見据えている。 

 少女の顔に浮かぶのは、ぞっとするほど蠱惑的な笑み。
 場慣れた情婦のような、それでいて優雅さをもった所作。

「稜」

 少女が声を発した刹那、夜気が歪んだように不快な熱気を持った。
 仲秋の夜風はいつしか泥のように生暖かく、稜の四肢に絡みついていた。

 ゆっくりと少女は稜へと歩み寄る。
 陰影は仄かに移ろいゆき、蜻蛉が飛ぶように、水が伝うように、しかし確実に地を歩んでいた。

「稜、……稜」
 少女は睦言のように繰り返す。

 稜の口は開かなかった。出せるものが何もないのだ。
 記憶、疑念、驚嘆、感動。
 それら全てが少女の奇跡と偽飾による、幼く妖艶な美貌に組み伏せられている。

 ただ稜は半歩すくんだだけで、気づいたら添え木となって妖しき花に絡めとられていた。
 細い二本の腕は白蛇の鎖となって稜を縛っている。

「そういえば自己紹介がまだね」
 くすくすと笑いながら、稜の首筋をそっと白蛇が這って羽交い締めにしていく。
「私、タゼッタ。――ふふ。いただきます、稜」

 飛びつくようにしてタゼッタが稜の唇を奪う。
 少女の重力に引かれる勢いのまま、稜はよろけながら膝を折った。
 成されるままに唇を吸われ、小さな舌の蹂躙を許していた。

 柔らかで弾けそうな少女の唇。口腔を舐る薄らかな舌の感触。
 稜にとって初めてのそれは、しかし楽しむ余裕を全く与えない快感の雷火だった。

 しかし同時に、肉体的な刺激によって、置き去りにされていた稜の思考が事態に追いついていた。
 くべられた炉のように心拍数が跳ね上がり、駆け足で快感を噛み砕いてゆく。
 情欲の加速に乗った好奇心が、自らの舌を快楽の坩堝へと持ち上げる。

 そして絡み合う。
 タゼッタの舌は薄く、舌根には独特のざらつきのあり、それは子猫の舌を思わせた。
 時にはミルクを舐めるように、滑らかな舌先で口腔を擽り、時には求愛する蛇のように絡みつく。

 不意に、稜の膝が震え、そして地に着いた。
 そのまま全身の力が抜け落ちたように、後ろへ尻餅をつく。
 快感に圧されたからではなく、しかしなぜそうなったのかは稜自身もよくわかっていなかった。 

「え、あれ?」
 稜はすぐさま立ち上がろうとしたが、五臓が冷えていて、膝がさび付いたように動かない。
 それを見て、愉快そうにくすくすと笑うタゼッタ。

「炉に炎をくべてやり、歓喜の咆哮を上げさせなければ、車輪が回らないのは当たり前……ね」
 
 タゼッタは腰を抜かしている稜に覆い被さり、彼の下唇を舌先で一舐めした。
 目を丸くしている稜を尻目に、タゼッタは無理矢理稜のズボンを脱がしにかかった――

水仙/4

 彼女が起きあがったとき、もはや身に纏うモノは行動をただ疎外するものでしかなくなっていた。
 制服のズボンは地面にずり落ちて拉(ひしゃ)げ、Yシャツはぶかぶかと不格好に膝まで届いている。
 性別が反転し、年齢にして5つは下がったその帰結としては当然である。

 彼女――タゼッタは得意げな面持ちで、まるで埃を取るように、服を脱ぎ捨てた。
 見事な肢体。染み一つ無い白銀の柔肌を惜しげもなく晒し、静かな夜の空気に浸らせる。

 ひょう、と冷えた風が大地に吹き付けた。
 夏の高き天蓋はとうに去り、季節は仲秋も半ばを過ぎている。
 しかしタゼッタはまるで気にした風もなく、視線を伏せぎみにして思案にふけっているようであった。

 ふと、タゼッタをある感覚が襲った。
 脳から脳へ、スパークするように弾けた情報の渦。
 反射的に彼女は公園の入り口――夜では到底見通せない所にある――を凝視した。

 確かにタゼッタは感知したのだ、ただ夜闇を通して、五感の届かぬ場所の気配を。

 そこからの行動は速かった。
 タゼッタは衣服と学生鞄を両手に抱えると、光の届かない公園の木立の影へと身を移した。
 そして暗闇の淵へしゃがんで身を隠す。

 誰かが、この公園に入った。

 しかし脳が知覚できる情報はそれだけではなかった。
 性別、背丈、体格、顔立ち、髪型、歩き方――外面的な全てが脳内の信号には記されていた。

 信号を紐解いていく。
 最初は1つ1つ、しかし徐々にその工程は驚くほど抽象化されてゆく。
 その人物の姿形を全て把握したとき、見えるはずのない真なる虚像を、タゼッタは脳裏へ瞬時に映せるようになっていた。

 声を出さぬよう気を付けながら、くつくつとタゼッタは笑っていた。
 それは自身の異(い)なる力の片鱗を目の当たりにしたからではなかった。
 そもそもこれは彼女にとって思い出すという作業に近いものであり、特別感動を呼び起こすものではない。

 全ての原因は、脳裏へと映された一人の少年にあった。
 彼は、タゼッタの裏であり表である佐上弘兼のよく知る人物――

「リョウ……稜……」

 長峰稜。佐上弘兼の最も親しいクラスメイト。
 その名を口にしながら、三日月の内弧のように淫靡な笑みを顔に浮かべる。

「私、お腹が空いちゃった」

水仙/3

 仰向けになったまま、眩しい満月にかざすようにして、そっと手を視界に入れる。
 月の光を透かすほどに白く、紅葉のように小さく、泡雪のように柔らかそうな手。

「は、はは……」
 とんでもないことになったのではないか、という衝撃に、背筋は青い電流で満たされていた。

 ――なぜ足が突如として空を切ったのか。

 弘兼はポケットから携帯電話をとりだして、カメラの機能を付けた。
 震える指でサブカメラに切り替え、液晶に自分の顔を映す。

 彼の動きはそこで止まった。
 落胆めいた驚き。だがそれ以上に弘兼の心は、液晶に映し出された造型に魅了されていた。

 幼さが完璧な均整によって魔性の魅力へと引き上げられた存在。
 大きな目は曇り無く世界を映し、懸かる淡い桜色の髪は月光に濡れて白銀に輝いていた。

 美少女。否、これは本当に少女の――人間の顔だろうか。
 人為、神意、無為、作為を超越し、寒気を感じるほどの完成度。
 そこにあるのは感動と驚嘆で覆われた違和。

「お前は」

 血色の良い唇が弾けるように言葉を紡ぐ。
 ひどく間の抜けた表情をしているくせに、それにすら愛嬌を感じる。
 これが非の打ち所無き造型の力か、と弘兼の憮然とした胸中は叫んだ。

「私は?」

 抗いようのない幸福感と、高らかな高揚感を伴って、鏡像によって自己が塗り換えられてゆく。
 愛しい人に手を引かれるような幸福感と、空への道を歩むような高揚感。

「アンドロギュノス、ヘルマフロディトス、サルマキス、キュベレー……いや違う」

 弘兼は魅入られた表情で最後の言葉を紡ぐ。
 それは自らの意志で自らを括るものを定義する儀式の終結。


「私は、タゼッタ」


 死と誕生。
 そして―― 『彼女』が立ち上がった。

水仙/2

 佐上弘兼(サガミ/ヒロカネ)が目を覚ましたのはもう日付も変わる頃であった。
 とかく彼はまず立ち上がって、抱き枕のように抱きしめていた鞄を持ち直した。
 幸いにも公園の芝生はきちんと管理されており、片手で軽く払うだけで制服は元通りとなる。

 それにしても、と腑に落ちない表情で弘兼は辺りを見回す。
 行きつけのパン屋と学校の間にあるこの公園にきてからの記憶が全く曖昧であった。

 唯一、鮮明な像として浮かぶのはあの美しい少女との逢瀬であった。
 幼くしなやかな四肢、小さく完璧な造型。
 完璧――そう、まさにあの姿は傷無き宝石の喩えが相応しい。
 桜色の髪は豪奢な絹の天蓋で、瞳の琥珀は幾星霜もの年月を裡に秘めて煌々と燃えていた。

「ああ……!」

 妄想と回想が激しく入り交じって、ついに感極まって弘兼は声を上げた。
 あのような美しい存在でありたい。
 永遠の聖性を孕んだ刹那の光輝!

 もしかくあるならば、という想像を重ねてきた年月は僅かであった。
 しかしそれは妄執の炎となりて、弘兼の心の内を灼くこともあった。

 ふっ、と弘兼は熱のこもった息を吐き出して、中空を仰いだ。
 夢見心地の虚ろな瞳に真円の月が映る。
 もだえるように、何かに取り憑かれたかのように、弘兼は軽やかに踏み出した。


 くるり。
 舞うように、たった一回転。


「うぇ?」 

 世界が変わったのをはっきりと知覚したのは、バランスを崩して再び芝生の上へ仰向きに倒れた後だった。

水仙/1

 ずっと、そう願っていた。

 1つになること。
 甘美で、背徳的で、倒錯的な果実。

 ――いま、それは彼の腕に抱かれていた。



 闇。

 我々は自らの外に感覚を待たぬが故、完全なる闇を観測する手段はない。
 無光、無音、無臭、無感覚、無重力。
 浮いているようで、落ち続けているのではないかと錯覚する空間は全て真っ暗。
 神経と筋肉。ただそれがあることだけ、内面から辛うじて知覚できる。
 だがそれは霞のように朧気で、五感は全て空虚に帰していた。

 ただ、唯一、胸の奥だけが確かな”もの”を感じていた。

 ――暖かい。

 優しい人の声、懐かしい音楽、柔らかな南風、午後の陽光のような。
 静かな、静かな、波紋のような波動。

 ――愛おしい。

 穏やかな波動は、やがて『カタチ』を持ち始める。 
 胸に顔を埋めるようにして、彼をそっと抱きしめる、小さな少女。
 花びらのように艶やかで、儚げな存在。

 淡雪のような白い肌から伝わる、薄く柔らかな肉の感触と熱を持った肢体の輪郭。
 そして心地よさ。肉体の感覚を媒介とせずに、ただ裡を充たしてゆく波動。
 
 少女がゆっくりと顔を上げ、こちらを見つめる。
 濃い琥珀色の瞳と、淡く艶やかな桜色の髪。

 彼は顔を上げた少女をただ見つめた。
 ここが何処であるかという疑問などはもはやどこかへ飛び去っていた。

 整いすぎた幼い顔立ちは、この世のものである気がせず、もはや凄艶を極めている。
 正しく夢中であった。
 伝わってくる少女の柔らかさと脆さをもっと感じようと、彼は彼女の背に両腕を回した。

 抱きしめ合う。少女は細く、小さく、柔らかく、脆い。

 つぷり、と音がして。
 坩堝へのみ込まれるように。


 世界が――昏倒した。
プロフィール

沙原 塞

Author:沙原 塞
 中1から萌えオタの社会人ゲーマー。ゲーム以外の趣味というと、自分の為に駄文を書き連ねるのが好きですが、ここはそういう散文の投棄場だとも言えます。
 さて、シスタープリンセスが連載されていたG'sマガジンを毎月楽しみにしていたあのころが懐かしい今日このごろ。みなさまいかがお過ごしでしょうか・・・

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